#9 よくいえば順応性が高い、悪くいうと環境に染まりやすい
「わたしは〇〇なんて絶対にしないから!」と豪語していたのに、
いざそういう環境になるとやってしまう......なんてこと、ありませんか?
わたしはあります。
大学生になってからは、とくに。
たとえば、
- 大学生になってもわたしはおうち大好きだから絶対におうち帰るもん。
→実家暮らしなのに家でご飯を食べるのは月1という生活 - 遅刻なんて絶対にしないし、授業をサボるなんてもってのほか。
→12コマ中まともに行くのは5コマ、2限にも間に合わない現状 - 大学生用語(笑)とか絶対使わないわ。
→「ワンチャン5限は切れる。飲み行こう」ガンガン使う
こんな感じ。
こうして羅列してみるとわたしのクズ大学生っぷりが露呈しますね。
さて、今回のメインテーマは、わたしの大学生活がいかに堕落したものかということではありません。
かつては馬鹿にしていた「大学生用語(笑)」についてです。
大学生用語とは、その名の通り、大学生が日常生活で頻繁に使う言葉のことです。
たいていの場合、それは大学生同士にしか通じません。
しかも、一部のコミュニティー内でしか使われていない、なんてこともしばしばあります。
今回は、某大学の某オーランサークルに所属しているわたしが、
よく使っている大学生用語について解説していきたいと思います。
わたしがよく使う大学生用語
「それな」
同意をするときに使われる。「ワロタ」とおなじで、捨て置くように発音する。
その馬鹿っぽそうな響きから、はじめは敬遠する人も多いが、
一度、その汎用性の高さを知ってしまうと、もうこの言葉なしでは会話ができなくなる。
ぶっちゃけそれほど同意してなくても使ってしまう。もはや相槌のようなもの。
使用例)「飲みいこ」「それな」、「お腹すいた」「それな」
「ワンチャン」
One Chanceの略。可能性を示す。様々な用途で使用されるため、その言葉の正しい意味はたぶん誰も理解していない。ニュアンスが伝わればよし。
使用例)「ワンチャン単位落としたわ」、「飲みに行くのはワンチャンあり」
対義語)「ノーチャン」
「ミリも」
"少しも"という意味。「1ミリも〜ない」の短縮形。
使用例)「課題、ミリもやってないわ」、「いやミリも怒ってないよ、マジで」
「てつで」
"絶対に"を意味する言葉。「鉄板で」の略語と考えられる。
使用例)「飲み行ってからのカラオケ、ワンチャンあるよね?」「それはてつでないわw」、「明日の2限はてつでいく!」
こうしてみてみると、略語が多いことがわかりますね。
大学生がいかに忙しない日々を送っているかということがよく示されています。
正直、高校生のころまではワンチャンとか馬鹿っぽいなあ(笑)なんて思ってましたが、
いざ大学生になってみると使ってしまうもの。
だって便利なんですもん。
わたしは使わないけど......
ここからは番外編。
自分は使わないけど、周りの人が使ってるのを聞いたことあるよ、という用語たちを紹介していきます。
「ありよりのあり」
賛同を示す語。まわりくどい言い方をしているが、結局ただの「あり」と意味は同じ。
個人的には「はっきりせい!」と思わないでもないが、「ありよりのあり」を使うことでなんとなくノリがよくきこえる(気がする)。
使用例)「ラーメン食べいきたい」「ありよりのあり」
「フッ軽」
"フットワーク軽い"の略語。たいていの場合、褒め言葉として使われる。
大学生はフットワークが軽く、すぐに遊べる人間が大好きなのである。
使用例)「あいつはフッ軽だから、絶対来るっしょ」
「わかりみが深い」
同意を示す。つまり、「わかる」ということ。もともとよく使われていた「形容詞 or 動詞+〜み」の進化形。ニュアンスとしては、元気のいい「わかる!!!」ではなく、しみじみと「わかるわぁ......」という感じ。
使用例)「この授業、眠さしかない」「それはわかりみが深い」
「しょっぱい」
ノリが悪い・つまらないなどを示す。おそらく「塩対応」から派生した言葉ではないかと考えられる。確実に褒め言葉ではないので、自分に対して使われることがないよう頑張ろう。
使用例)「あいつ、しょっぱいから全然飲まない」
類義語)「渋い」
ニュアンスで理解し合える
大学生用語は、使う用途によってニュアンスが異なることもしばしば。
それゆえほとんどが大学生にしか通じないとされています。
そんなんで会話成立するの?と思われるかもしれませんが、心配はいりません。
下手すると家族以上に一緒に過ごす時間が長いかもしれないのが、大学の友達。
1を発して10が伝わる、そんな世界なのです。
しかし、困ることもあります。
それは、圧倒的に語彙力が低くなるということ。
なんにでも「それな」と返しているのですから、当たり前です。
大学生同士の会話だとなんの問題もないのですが、
やはり将来的に困る日がくるのではないかと今から恐れおののいています。
まあでも、"よくいえば順応性が高く、悪くいうと環境に染まりやすい"タイプなので、なんとか生きていける(はず)!
がんばります。
ちゃんちゃん
#8 忘れたころにきっと掘り返される
おひさしぶりです。
いつのまにか12月になってしまいました。
恐ろしいことに2016年ももうすぐおしまい。
時間のはやさに気持ちが追いつきません。
今回は、Twitterの鍵についておはなしします。
Twitterに鍵をつけるかつけないか
わたしは基本、鍵をつけるようにしています。
理由は以下の通り。
- 画像を載せることもあるので、念のため
- 本名でやってるから知り合いにアカウントを特定される可能性がある
- 意識高い系アカウントからのフォローがうざい
知り合いからアカウントを特定されても困ることはないのですが、
相手が一方的にわたしのツイートだけを見れるという状態にはしたくないのです。
見るならフォローしてください。
知り合いなら相互フォローしましょうよ、と思う。
あと勝手にフォローされるのもあまり好きじゃないので、
ワンクッションをおくという意味でも鍵をつけています。
そのおかげで余計なアカウント(※)からフォローされるのを避けられますし、
フォローフォロワーを管理できるのでとても便利です。
(※ この"余計なアカウント"に代表されるのが、いわゆる意識高い系アカウント。あからさまに胡散臭そうなプロフィール欄を確認した時点で、即フォロリク拒否します)
しかし、たまに友人から
「リツイートしたいから一旦、鍵外してよ〜〜」
と言われることがあります。
たとえば、一緒に遊んだりなどしてそのことについてツイートをしたときですね。
その場合は、鍵を外します。
そしてしばらくは鍵なしで過ごします。
でもそうしているとそのうち知らない人からフォローされたり、
また面倒臭いなあ〜とおもうときがくるので、
そのときは余計なアカウントからのフォローをすべて整理した上で再び鍵をかけ直します。
Twitterの利用目的が主に知り合いと繋がるためであるわたしにとっては、
上記のような使い方がちょうど良いのです。
どこまでも見れる
先ほどわたしは、"フォローされてない人から一方的にツイートを見られるのは嫌"と言いましたが、そう思いながらついつい自分も似たようなことをしてしまうときはあります。
特にInstagram。
フォローはしてないけど、知り合いのアカウントをみつけたら、おもわず見てしまうのが人の性。
とくに、恋人写真(恋人匂わせ写真も含む)などというものが投稿されていたときには、念入りにチェックしてしまいます。
自分でもたち悪いなあ〜とおもいつつ、これだけはやめられません。
"類はともを呼ぶ"といいますが、こんなわたし以上にわたしの友人はもっとすごい。
先日、「〇〇(共通の知り合い)の裏垢見つけちゃった」と友人から報告がありました。
この「見つけちゃった」は言葉通りに受け取ってはいけません。
見つけたんじゃないんです。
探したんです。
これを聞いたときは戦慄しましたね。
ここまでくるとネトストだよ......と思わずツッコみました。
まあ正直、するつもりがなくてもネトストなんて本当に簡単にできます。
鍵をかけることによってすべてを防げるというわけではありませんが、
みられたくないものはちゃんと自分でしっかり管理をしましょうねと思いました。
ちゃんちゃん。
#7 自撮り文化の世代を生きる
本日、11月18日はなんの日でしょう?
正解は......
ミッキー&ミニーの誕生日
でした!
そこで、東京ディズニーリゾートの公式PRアカウントであげられたお祝い動画がこちらです。
【ミッキーとミニーのお誕生日デートをのぞいてみました♡】
— 東京ディズニーリゾートPR【公式】 (@TDR_PR) 2016年11月18日
今日、11月18日はミッキーとミニーのお誕生日!ミッキーは、特別な1日にしようとミニーをデートに誘います♪>> https://t.co/T2OJ9NDgeD #ハッピーバースデーミッキー #ハッピーバースデーミニー pic.twitter.com/Kq5ZFflLxn
二人の誕生日を特別なものにするために、ミニーを誘い出すミッキー。
東京ディズニーランドを自由に駆け巡ってデートを楽しみます。
そしてそれを見守る、グーフィー・ドナルド・プルートたち......。
とても可愛らしい動画ですよね。
特に最後のドナルドが愛くるしくて思わずRTしてしまいました。
さて、この動画の中ではあるシーンがかなり印象的に描かれています。
それがこれ↓
ディズニーキャラクターたちによるセルフィー(自撮り)です。
まさに自撮り文化の時代である今を強く反映してるといえますね。
というわけで、今日は"自撮り"について考えてみました。
まず、人はなぜ自撮りをするのか?
この問いの答えはただ一つ。
自分で撮ったほうが圧倒的に盛れるから。
写りを画面で逐一チェックしながら、角度や表情を変えてベストな瞬間を撮れるんですから
当たり前ですよね。
そのうえ、ありとあらゆるカメラアプリがわたしたちのことを美化してくれるので、
スマホの画面に映っている顔はもはや自分じゃないといっても過言ではないでしょう。
"プリクラと自撮りの可愛さは信用するな"
この考えはもはや暗黙の了解となってしまいました。
ここで、自撮り文化の流れをざっくりとまとみてみました。
初期:盛り具合は自撮りをする人のテクニックによって左右される。 自撮りであれば誰もが可愛くなるというわけでもなかったので、 盛れると純粋に褒められる。いい時代。
中期:カメラアプリが自撮りに対応してくる。美白フィルターは当たり前。 もはやどんな被写体であろうが実物よりは必ず可愛く撮れる時代。 自撮りに対して「まあゆーて自撮りだし......」という反応をされる。
いま:カメラの顔認識技術が向上。SNOWがめちゃくちゃ流行る。 もはや"盛れた"とかいうレベルじゃない。別人になれる。 SNOWの可愛さは本物と認められない。 iPhoneのデフォカメラで撮った写真を差し出せコラとなる。 |
先ほども述べましたが、もはや今は自撮りの可愛さに満足をしてもらえない時代です。
その原因は、主にカメラアプリの発達だと考えられます。
カメラアプリによって女の子は可愛くなることができました。
しかしその反面、写真に対する信用度は下がる一方なのです。
せっかく盛れたのに、「どうせ自撮りじゃん......」と思われるのは悲しいですよね。
(実際、自撮りだから盛れてるんですけど!💢)
しかも、逆に盛れないと「あっ......(察し)」という空気になるのです。
実に恐ろしい。
そこでわたしは主張したい。
あまりカメラアプリの性能を上げすぎないで〜〜!!!!!
"盛れるのが当たり前"はハードルがあまりに高すぎます。
もっとみんなにとって優しい世界となりますように。
%1 文学をまなぶ
私は今、大学で文学を専攻しています。
大学受験のとき、わたしは自分に3つの選択肢を提示していました。
- 国立を目指す道(専攻は決めずにとにかく学歴を重視)
- 国際関係を学ぶ道(帰国子女だから)
- 文学を学ぶ道(単純に本が好きだったから)
散々悩みましたが、最終的に選んだのは"文学を学ぶ道"でした。
理由は、単純です。
上記の通り、本を読むことが好きだったから。
自分の好きなものをもっと深めたいと考えました。
そして今、わたしは希望通りの学部に進学し、文学を専攻しています。
ゼミも第一志望のところに受かりました。
一応、順風満帆にことは進んでいる、とわたしは思っていました。
しかし、その考えを揺らがせるできごとが先日起こりました。
今日はそのことについて書き留めておきたいと思います。
それは毎回2人ずつが発表を行い、その発表についてみんなで議論をするという
演習形式の授業でのことでした。
その日の発表は、
「ペンギンハイウェイから見る小説の面白さ」と「カミュのペストについての考察」。
正直にいうと、発表のレベルに差はありました。
前者の方は、自分が好きな小説の面白さを並べただけ。
一方で後者は、カミュのペストについて分析をした上で、自分なりの考察をしっかりと述べていて、
のちに行った議論の中でも盛り上がりをみせたのはこちらの発表についてでした。
ただ、個人的に好きだったのは前者の発表です。
なぜなら、単純にこの本が好きという気持ちが強く伝わってきたから。
印象的だったのは、
"文学を専攻する学部だからこそ、難しい小説を取り扱うことは多いが、正直背伸びしているように感じる。純粋に文学を楽しむということを思い出して欲しい"
という言葉です。
実はわたしも大学に入ってから、ずっと感じていたことでした。
本を読む→たのしい→好き
おそらくこの感情は学部生で共有ができるものだと思います。
しかし、どういった本を読んでたのしいと感じるかは人によって違うでしょう。
わたしはがたのしいと感じる基準は、
”共感ができるかどうか"です。
たとえば、普段から自分の頭の中にはあるのだけれど、
上手に言語化ができないような考えってありますよね?
それと似たような考えを、小説の中で見つけることがあります。
小説の中で見つけるということはすなわち、言語化されているということ。
自分の気持ちをはっきりと言葉にしてもらえたときの喜びはひとしおです。
靄が晴れるような気持ちになります。
このように、わたしが小説に一番に求めるのは、共感なのです。
とすれば、難しい本=読みづらい本は、わたしにとってあまり楽しくないものになってしまいます。
さくさく読めないし、気持ちも心に入ってきづらい。
文学部に所属するからにはそういった本を読むことは避けられませんが、
とっても楽しい!と思うことはなかなかありませんでした。
だからこそ、今回自分の好きな小説の面白さについてただ語るだけの発表をした彼の気持ちにはとても共感ができたのです。
(わたしの好きな"共感"です)
しかし、このような意見が飛んできました。
「その小説が好きという気持ちはわかる。しかし、文学を学ぶというからには難しい本にも挑戦しなくてはいけないし、ただの娯楽としての文学に留めるべきではないと思う」
まさにごもっともな意見だと思いました。
特に、"ただの娯楽に留めてはいけない"というのは非常に耳に痛い意見でした。
文学を学ぶことに決めたのも、この学部に入ることを選んだのも、全部わたしです。
それなのに、ただの読書好きを逸脱することができずにいる現状……。
薄々気づいてはいましたが、情けないなと思います。
じゃあ、難しい本にどんどん挑戦していけばいいのか?
もちろんそれもやるべきですが、それだけではないですよね。
その授業を経て、いま思うのは
わたしの"文学を学びたい"という気持ちはあまりにも抽象的だったなということです。
もっと具体的に、こう学びたい、深めていきたいというものが見えていないと、
わたしにとって小説はあくまで娯楽という枠組みから抜けることはないでしょう。
残りの2年でなにができるか。
来年からゼミもはじまるし、それに向けてぼちぼち考えていきたいなぁと思います。
#6 趣味:instagramで子育てアカウントを覗くこと
突然ですが、はっきり言って、わたしはスマホ依存症です。
電車で通学中や、バイトの休憩、授業までの空き時間にやっていることといえば、
特に最近は、Instagramのディスカバリーで子育てアカウントを覗くのが趣味で、
日々小さな赤ちゃんから癒しをもらっています。
話は変わりますが、最近Instagramにストーリーという新しい機能が追加されましたね。
わたし自身、使ったことは1,2回程度しかありませんが、
友人が更新したストーリーは欠かさずチェックするようにしています。
といっても、ストーリーを見るためだけにアプリを開くわけではありません。
あくまで、前述したような子育てアカウントを覗くついでに
更新されたストーリーをチェックしているのです。
どちらかというと"リアルタイムなSNS"ではなかったInstagramにとって
この機能の追加はなかなかに大きな革命だったのではないでしょうか。
その一方で、衰退の一途を辿りつつある(?!)かもしれないのが
同じくリアルタイムで友人に動画や写真などを送信できるSnapchat
いままではスナチャを使っていたという人も、
じわじわとInstgramのストーリーに移行しているようです。
その原因はなんなのか?
両者を簡単に比べてみました。
Snapchat
リアルタイムな投稿をメインにしている
誰かから動画が送られてこない限り、アプリを開くことはない
送信相手は自分で選ぶため、受信者側からすると
送信者から選ばれたという意識が僅かながらにある
(=なんらかのリアクションをしなくてはいけないという気持ちになる)
Instagramのストーリー
基本は写真や動画をコメント付きで投稿するため、リアルタイムではない
しかし、人の投稿を見たり、ディスカバリー欄を漁ったりと
暇なときにInstagramを開きたくなる要素を持っている
(=ストーリーはそのついでに見れる)
ストーリーは誰に向けられるでもない気ままな投稿なので、
反応を求めない&求められない気楽な関係
いかがでしょうか。
世の中には様々なSNSアプリが存在します。
しかし、結局メインとして使えるのはおそらく2,3個が限界。
私の場合は、LINE、Twitter、Instagramです。
その3つに共通していえるのは、
常時チェックしたくなるようなコンテンツ力があるということ。
用がなくとも、なんとなく覗いてしまう。
Snapchatにはその要素が弱いように思えます。
だからInstagramのストーリーがいま勢いを増してきているのかもしれませんね。
ちゃんちゃん。