%1 文学をまなぶ
私は今、大学で文学を専攻しています。
大学受験のとき、わたしは自分に3つの選択肢を提示していました。
- 国立を目指す道(専攻は決めずにとにかく学歴を重視)
- 国際関係を学ぶ道(帰国子女だから)
- 文学を学ぶ道(単純に本が好きだったから)
散々悩みましたが、最終的に選んだのは"文学を学ぶ道"でした。
理由は、単純です。
上記の通り、本を読むことが好きだったから。
自分の好きなものをもっと深めたいと考えました。
そして今、わたしは希望通りの学部に進学し、文学を専攻しています。
ゼミも第一志望のところに受かりました。
一応、順風満帆にことは進んでいる、とわたしは思っていました。
しかし、その考えを揺らがせるできごとが先日起こりました。
今日はそのことについて書き留めておきたいと思います。
それは毎回2人ずつが発表を行い、その発表についてみんなで議論をするという
演習形式の授業でのことでした。
その日の発表は、
「ペンギンハイウェイから見る小説の面白さ」と「カミュのペストについての考察」。
正直にいうと、発表のレベルに差はありました。
前者の方は、自分が好きな小説の面白さを並べただけ。
一方で後者は、カミュのペストについて分析をした上で、自分なりの考察をしっかりと述べていて、
のちに行った議論の中でも盛り上がりをみせたのはこちらの発表についてでした。
ただ、個人的に好きだったのは前者の発表です。
なぜなら、単純にこの本が好きという気持ちが強く伝わってきたから。
印象的だったのは、
"文学を専攻する学部だからこそ、難しい小説を取り扱うことは多いが、正直背伸びしているように感じる。純粋に文学を楽しむということを思い出して欲しい"
という言葉です。
実はわたしも大学に入ってから、ずっと感じていたことでした。
本を読む→たのしい→好き
おそらくこの感情は学部生で共有ができるものだと思います。
しかし、どういった本を読んでたのしいと感じるかは人によって違うでしょう。
わたしはがたのしいと感じる基準は、
”共感ができるかどうか"です。
たとえば、普段から自分の頭の中にはあるのだけれど、
上手に言語化ができないような考えってありますよね?
それと似たような考えを、小説の中で見つけることがあります。
小説の中で見つけるということはすなわち、言語化されているということ。
自分の気持ちをはっきりと言葉にしてもらえたときの喜びはひとしおです。
靄が晴れるような気持ちになります。
このように、わたしが小説に一番に求めるのは、共感なのです。
とすれば、難しい本=読みづらい本は、わたしにとってあまり楽しくないものになってしまいます。
さくさく読めないし、気持ちも心に入ってきづらい。
文学部に所属するからにはそういった本を読むことは避けられませんが、
とっても楽しい!と思うことはなかなかありませんでした。
だからこそ、今回自分の好きな小説の面白さについてただ語るだけの発表をした彼の気持ちにはとても共感ができたのです。
(わたしの好きな"共感"です)
しかし、このような意見が飛んできました。
「その小説が好きという気持ちはわかる。しかし、文学を学ぶというからには難しい本にも挑戦しなくてはいけないし、ただの娯楽としての文学に留めるべきではないと思う」
まさにごもっともな意見だと思いました。
特に、"ただの娯楽に留めてはいけない"というのは非常に耳に痛い意見でした。
文学を学ぶことに決めたのも、この学部に入ることを選んだのも、全部わたしです。
それなのに、ただの読書好きを逸脱することができずにいる現状……。
薄々気づいてはいましたが、情けないなと思います。
じゃあ、難しい本にどんどん挑戦していけばいいのか?
もちろんそれもやるべきですが、それだけではないですよね。
その授業を経て、いま思うのは
わたしの"文学を学びたい"という気持ちはあまりにも抽象的だったなということです。
もっと具体的に、こう学びたい、深めていきたいというものが見えていないと、
わたしにとって小説はあくまで娯楽という枠組みから抜けることはないでしょう。
残りの2年でなにができるか。
来年からゼミもはじまるし、それに向けてぼちぼち考えていきたいなぁと思います。